忘れないうちにちょいとメモー。
■大内宿
旧会津西街道、別名下野街道は会津と栃木今市約130kmを結ぶ街道。
鎌倉時代から会津と関東を結ぶ道として存在していたが、
整備され始めたのは戦国時代になってから。
徳川幕府時代に入り、幕府が整備を続け
参勤交代の制度が確立されるころには、きちんと整備された。
会津藩はもちろん、米沢藩、庄内藩、新発田藩などの参勤交代の際に利用され
また、物流の道としても江戸と会津を結ぶ重要な役割を果たしていた。
1590年、奥州仕置を行った豊臣秀吉はこの街道を通って帰った。
その下野街道にある宿場町のひとつが大内宿。
若松城下から今市まで17の宿場町があるが、
若松から3つめの宿場町である。
移動手段はほぼ徒歩だったこの時代、
一日の行程として、若松から6つめの宿場町「田島宿」まで行くのが主だったようで
その中間にあたる大内宿はお昼の休憩に使われることが多かったみたい。
朝、若松城下を出て、お昼に大内宿で休憩し、夜は田島宿で宿を取る。
こんな感じだったのかな。
ちなみに、
若松から大内宿までは約4里半。
大内宿から田島宿までは約5里。
わらじなんて一日でだめになっちゃうよね。
わらじ売りは繁盛するんじゃ・・・?
現在は、約450mにわたり茅葺の民家が立ち並び、周囲の環境も含め
重要伝統的建造物保存地区にしていされている。(昭和56年)
宿場町として指定されたのは全国で3番目。
ちなみに、1番目が中山道の妻籠宿(長野県)
2番目に指定されたのも同じく中山道の奈良井宿である。
大内宿には高倉宮以仁王と桜木姫の伝説というものもあるが、
個人的に興味が全くないのでスルー。。
下野街道は主要な街道だったので、戊辰戦争の際はこのあたりも戦場になった。
会津軍は戦略的事情で周囲を焼き払いながら後退していったが、
阿部だいごろーっつぅ当時の名主さんが両軍(東西)の将に死を覚悟した必死の抵抗をみせ
それをまぬがれたとか。
メモでした。
後半は集中力が切れて文も適当に・・・Orz
この間、行く前に付け焼刃で調べた内容と記憶を辿って書いたから
間違ってるとこいっぱいあるかも。
・・いや、ある。
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